ナオコガイドのアイルランド日記

観光ガイドによるアイルランド生活・旅情報

ウェールズ「ケルト紀行」⑤ ラテン語並記のオガム文字

ヨーロッパ大陸を西へ移動し、イベリア半島西端へ行き着いたケルト人は、紀元前700年頃から徐々にブリテン島、アイルランド島へ北上して来ました。
精霊信仰で、自然万物に神が宿ると考えていた彼らは、話し言葉には魂が宿ると考えていました。文字表記すると「言霊」が失われてしまうという理由から、長い間文字を使用せず、モノゴトを伝承で伝えていたのです。
ケルト系の言葉(アイルランド・スコットランドなどのゲール語類、ブルターニュ・ウェールズ・コーンウォールなどのブリトン語類)に固有の文字がないのはこのためですね。

キリスト教の布教に伴いラテン語のアルファベットが普及し、ケルト系の言葉もABC…のアルファベットに当てはめて表記されるようになるのですが、それはずっと後になってからの話。
いくら言霊が失われる…とは言っても文字がない不便さもあったようで、地域によってはアルファベットを借用して文字を表記したこともあったようですが(エトルリア文字やギリシャ文字から借りたらしい)、全く新しい文字を「発明」するということをしたのは、アイルランド島に渡ってきたケルト人だけでした!

それが「オガム(Ogaham)」と呼ばれる、石に刻まれた文字。点と線で構成され、点で表される母音が5文字、線で表される子音が15文字。合計20文字。
5で割り切れるので、指を使った暗号として使用したのが始まり、との説もあります。
(どんな文字が見てみたい方は、このサイト右側の一覧表が見やすいでしょうか→The Ogham Alphabet
4世紀頃にアイルランド南部で発明されたようですが、キリスト教布教の足音がそろそろ聞こえてくる頃ですので、やはりラテン語のアルファベットに何らかの刺激と影響を受けて「文字表記」というアイデアに至ったものと思われます。

ところがやはりケルト。そもそもの概念がラテン語のアルファベットと全く違うのです。オガムは横書きではなく、縦書き文字なのですが、なんと上から下へ…ではなく、「下から上へ」読みます!
それぞれの文字には樹木の名が当てはめられていて、樹木信仰の強い古代アイルランド人(ケルト人)は、木が下から上へ育つと同様に文字も下から上へ読むのだ、と考えたようです。文字とはいえど、そこには信仰の匂いがプンプンしますね。
書かれている内容は土地の所有者や王様の墓碑銘が主ですが、そもそものコンセプトが極めて呪い(まじない)的。文字になってもやはり「言霊」っぽくて、なんだか「生き物」的なのです。
モノの本にはドルイドが儀式に使用した秘密文字…などと説明しているものもありますが、というより、当時の世の中全体が「呪い的」であったということだと思います。

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ディングル半島のキルマルケダー教会(Kilmalkedar Church, Co. Kerry)に残るオガム文字が刻まれた石。写真に写っている側は線(子音)ばかりですが、たいていの場合、反対側に点(母音)が刻まれていて、下から上へとジグザグに読んだりします(2012年8月撮影)

オガムが刻まれた石(以後、オガム石)は、アイルランド島に約300見つかっています。そのうち3分の2が南部のカウンティー・ケリー(Co. Kerry)&カウンティー・コーク(Co. Cork)。アイルランド島外では約75見つかっていますが、そのうち40がウェールズ、30がスコットランド。
4世紀から7・8世紀頃までの300~400年間に渡り、使用されたようです。

すっかり前置きが長くなってしまいましたが、今回のウェールズの旅で、ウェールズに残るオガム石を見ることが出来て感激したので、そのことを書きたかったのでした。
オガム文字は解読されていますが、どうやって解読出来たかというと、ウェールズなどブリテン島に残るオガム石にはたいていラテン語が並記されていたからです。それを照らし合わせて文字を解読したんですね。
ローマ人が来なかったアイルランドにあるオガム石は、オガム文字オンリー。「どうやって解読したんですか?」というお客様からのご質問に、「ブリテン島にラテン語が並記されたオガム石が残っているので…」とお答えしてきましたが、それをこの目で確かめることが出来て感激でした。

こちらが今回ウェールズで見た、2体のラテン語付きオガム石。いずれもオガム文字が薄くて、写真にほとんど写っていないのが残念ですが。

まずは、マルガム石の博物館(Margam Stones Museum)で見た、Pumpeius Stoneと呼ばれる6世紀の墓碑銘。
高さ1.35メートルの赤砂岩。ラテン文字、オガム文字それぞれで名前が書かれていますが、説明書きによると、ラテン文字では英名、オガム文字ではアイルランド名に書かれているとのこと。

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石の平らな表面にラテン文字。角にオガム文字。写真をクリックして拡大して、向かって右角の下&左角の上をよ~く見ていただくと、オガム文字が見えます

そしてこちらは、ネヴェルン近郊の聖ブリナッハ教会(St Brynach's Church, Nevern)で見た、Vitalinus Stone。
説明書きには高さ1.93メートルと書かれていますが、そんなに高くなかったです。せいぜい1.3メートル位。上部が割れたか何かしたのでしょうか。5~6世紀のもので、やはり墓碑銘のよう。Vitalinusという名がラテン文字とオガム文字で書かれているようです。

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こちらも写真をクリックして拡大して見ていただくと、向かって左角の上の方にオガム文字が見えます

(ちなみにこの教会ゆかりの聖ブリナッハはアイルランド出身。非常に美しいケルト十字架や、血を流す木などがある興味深い教会だったので、そのことはまた後ほど…)

このウェールズの石たちを見て、アイルランドがローマ化されなかったことがいかに大きなことであったかを、つくづく思い知りました。
こういうふうにラテン語で「翻訳」されてしまうと、オガムの持つ魔力のようなものが一掃されてしまって、ただの「文字」になってしまう。ラテン語並記のオガム石をついにこの目で見て感激したものの、アイルランドにあるオガム石の持つある種の迫力のようなものは、ウェールズの石からは感じられませんでした。魔法がとけちゃった感じ(笑)。

★ウェールズ関連ブログ
ウェールズ「ケルト紀行」の準備中
ウェールズ「ケルト紀行」① ただ今、ご案内中…
ウェールズ「ケルト紀行」② アングルジー島を満喫!
ウェールズ「ケルト紀行」③ 「イン」に泊まる(ボウマリスのオールドブルズヘッド)
ウェールズ「ケルト紀行」④ 崖の割れ目の聖ゴヴァン礼拝堂

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ウェールズ「ケルト紀行」④ 崖の割れ目の聖ゴヴァン礼拝堂

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岩の割れ目に建つ珍しいチャペル、聖ゴヴァン礼拝堂

先週のウェールズの旅の様子をちらちらとご紹介させていただいていますが、ケルトに造詣が深いリピーターのお客様をご案内しての「ケルト紀行」でしたので、リサーチから実際のご案内まで、私にとっても非常に興味深い旅でした。
アイルランドに関係する場所や印象に残った箇所などは、これから少しづつご紹介していきたいと思います。

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まずは、お客様とあとあとまで「あそこは面白かったですね~」と話題にのぼったこちらの場所、岸壁の岩の割れ目に建つ聖ゴヴァン礼拝堂(St Gavan's Chapel)。
礼拝堂は高さ50メートルの崖の上…ではなくて下(!)にあるので、70段強ある石段を海へ向かって下っていきます。

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眼下のスレート屋根が目指す礼拝堂。小雨が降る日でしたので足場が心配でしたが、段差は低く、よく整備された石段でしたのでノープロブレムでした

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一体どこから礼拝堂内部に入るんだろう、まわり込んで海の方から入るのかな…と思って近づいったら、こんな狭い隙間に入り口があった!

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そして、内部。縦5.3メートル、横3.8メートルという小さなチャペルは11~13世紀建立

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窓からは岸壁と海が見えます

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そして、チャペルを通り抜けて海側に出るとこんな感じ。まるで岩の割れ目に挟まるように建っています。入り口に立つのは、楽しみにしていた場所に来られて嬉しそうなS様

聖ゴヴァンはアイルランド出身の聖人。AD500年頃にアイルランドのウェックスフォードで生まれ、海を渡って対岸のこの地へやって来たとされています。
この頃、ヨーロッパ大陸から多くのキリスト教伝道師がブリテン島、アイルランド島へ渡って来ていました。西ローマ帝国が崩壊して混乱に陥ったヨーロッパ大陸を逃れて、ローマの影響が少なく、まだまだ改宗の余地のある異教徒が多く存在していたブリテン島の辺境地や、(ローマ人がやって来なかった)アイルランド島に新天地を求めて渡って来たのです。
時を同じくして、聖パトリックによりキリスト教が伝来したアイルランドでは、パトリックに続くさまざまな伝道師がアイルランド島内のみならず、地理的に近いウェールズやスコットランドへも布教活動に来ていました。となると、当時のウェールズには「大陸から来た伝道グループ」と「アイルランドから来た伝道グループ」の2つのキリスト教グループがあったことになります。

2つのグループが海辺に到着して、ローマ人が築いた「ローマン・ロード」を伝って定住するにふさわしい場所・布教活動しやすい人の多い場所を目指すのですが、アイルランド人はそもそも好戦的気質に欠けていますから、大陸から来るグループに何かと後れを取りがちだったようです。さらにアイルランドの初期キリスト教は密教性・隠遁性が強いですから、崖沿いだとか、離島だとか、わざわざ孤立した過酷な場所を好んで住み、孤独の中で、ある意味気ままに修行する傾向がありました。
となると、「大きな町へはあちらのグループが行っちゃったから、自分たちはこの崖沿いで自由気ままにキリスト教ライフを送ろうか」なんてことになり、人里離れた不便な場所に定住しがち。よって、そういう「辺境の中の辺境」といったローケションにある教会や聖地は、「アイルランド人聖者のゆかりの地」である場合が多いのです(笑)。

話が長くなりましたが、そういうわけで、ここがアイルランド出身の聖者ゆかりの地というのは、私としては納得。とんでもない場所にあることが多いのです。
伝説によると、聖ゴヴァンはアイルランドからウェールズに向かう途中で海賊に追われ、命からがら海岸に到達。すると目の前の岸壁がガガッ~と開いてゴヴァンを取り込み、海賊から守ってくれたそうです。ご加護に感謝してこの地にとどまり、魚を採りながら隠遁生活を送り、海賊の来襲を土地の人々に伝える役目を果たして一生を終えたとか。
AD586年3月26日にこの地で亡くなり、現チャペルの下に埋葬されているそうですから、ここが聖ゴヴァンの墓所ということになりますね。

もうひとつ、伝説。聖ゴヴァンは愛用の銀の鐘をチャペル上部の鐘楼に取り付ける予定でしたが(とは言っても、当時はチャペルはなかったはずですが…)、海賊に持ち去られてしまいました。すると空から天使が現れて、鐘を奪回、二度と盗まれることのないように巨大な岩の中に埋めてくれたそうです。それ以来、聖ゴヴァンがその岩をたたくと、通常の鐘より何千倍も強い音で鳴り響いた…そうな。
で、その「鐘の岩(Bell Rock)」が今もあるというのですが、water edgeにあるという説明から、私はこの岩だと思うんですよね。

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ちょっと細長いけれど、鐘みたいな形。背後に見えているのがウェールズ南西部ペンブルックシャー(Pembrokeshire)の最南端、セント・ゴヴァンズ・ヘッド(St Govan's Head)です

教会にコブのようにくっついている岩もちょっと怪しい感じ。water edgeにあるという説明を読まなかったら、これだと思ったかもしれません。

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聖ゴヴァンの時代にはチャペルはなく、岩の割れ目の洞窟のようなところで生活していましたので、これであるはずはないですが

聖ゴヴァンが誰であったかに関しては別の説もあり、アーサー王の円卓の騎士のひとり、ガウェイン(Gawain)と同一人物であるという説もあるようです。
ウェールズにもイングランドやコーンウォール同様、「アーサー王伝説」があちらこちらに息づいており、今回の旅でもアーサー王の円卓(ローマ時代の闘技場)やら、アーサー王が投げた石(古代のドルメン)などいろいろ見ましたが、伝説ももとは歴史的真実から発生していますから、聖人であり、騎士であり、なんらかのスゴイ人が偉業を成したことには変わりないでしょう。

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『ケルズの書』が書かれたアイオナ修道院(アイオナ島・その2)

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聖地に輝く夏の日差し。星のように輝く太陽の上に、エンジェルが・・・!

少し間があいてしまいましたが、先月のアイオナ&スタッファ訪問の続きです。

聖コラムキル上陸の地にて聖者の気分・・・を味わった翌日、いよいよ『ケルズの書』が書かれたアイオナ修道院(Iona Abbey)を訪ねました。

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アイオナ修道院、全景

前回のブログの繰り返しとなりますが、アイオナの修道士たちが着手した『ケルズの書』がなぜアイルランドにあるのか?
書が作成された800年頃はバイキングの活動が激しい時代で、アイオナの修道院も襲撃をうけ、多くの修道士が殺されました。
生き残った修道士たちが未完の書をたずさえて小舟に乗り、「(アイオナ修道院を創始した)聖コラムキルの生誕地へ逃げよう!」と目指したのがアイルランド。ダブリンの北西50キロ程のケルズ(Kells, Co. Meath)に新たに創設された修道院にて完成させたため、『ケルズの書』と呼ばれるようになったのでした。

その後、ダブリンのトリニティーカレッジに寄贈され、現在に至ります。

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修道院の説明パネルにあった『ケルズの書』の写真。最後の審判のページ
(こちらのギャラリーに有名な数ページが掲載されています。ホンモノの美しさには及びませんが・・・。→ウィキペディア:ケルズの書

『ケルズの書』は全340枚のべラム紙(子牛の皮をなめして作った紙)の両面に書かれた、4つの福音書、いわゆる聖書です。
印刷技術が発明される何百年も前、聖書の作成は修道士たちの重要な日々の仕事でした。紙も、鳥の羽を加工したペンもすべて修道士たちの手作り。絵の具は鉱石の粉に樹脂を混ぜて作り、草木や昆虫などからも抽出したようです。
地道な作業の源は、信仰と、ほとんど執念・・・というくらいの精神力!

修道院の話に戻します。

『ケルズの書』が書かれた800年頃の建物は木造で、度重なるバイキングの襲撃により朽ちてしまいました。
その後、1200年頃、ベネディクト派の修道院として再建されますが、それも廃墟となり、現在の修道院は19世紀に土地の持ち主により修復されたもの。
オーディオガイドの詳細の説明を聞きながらじっくり見学できて幸せでした。

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聖コラムキルの墓所であった聖堂の復元。説明によると、800年代の始め、当時の修道院長はバイキングの襲撃からコラムキルの聖遺物(入れ物に入った遺灰)を守ろうとして、犠牲となり殺害されたそう・・・

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美しいハイクロスが2体。手前の聖ヨハネの十字架は聖コラムキルの墓所の目のまえにあります。これ、よく見ると、円環から飛び出した十字架部分が、通常よりちょっと長め&華奢。美しいのですが、やはり安定感に問題があり何度か倒れて壊れ、現在のものはレプリカ。修道院敷地内の博物館にホンモノの破片が展示されていました

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こちらの聖マーティンの十字架は1200年頃のもの。アイルランドで多く見られる800~900年頃のもとは違い、上に向かって先細り&十字架の横棒が円環よりはみ出さない、というこの時代特有の特徴が見られます。写真に写っている面は文様のみですが、反対側には聖書のシーンが彫られています(逆光でうまく写せませんでした)。その中に出てくる聖母子像は、『ケルズの書』の有名な聖母子のページをコピーしたのではないか、と説明にあり、これまた興味深い・・・

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教会内部。手前の美しい文様の石は洗礼盤

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シンプルで美しい祭壇は祈る人の想像力をかきたてます。現在ここで、20世紀初頭に創始されたアイオナコミュニティ(宗派を越えたキリスト教のコミュニティー。現代のケルト式キリスト教)による礼拝が行われています

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教会内部に2つある聖コラムキルのステンドグラス。アイオナの守護聖人かつ、アイルランドの3大守護聖人のひとり(その他2人の聖パトリック、聖ブリジットのステンドグラスもありました)

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聖コラムキルの聖遺物。なんと、(伝説によると)聖コラムキルの枕!写真を近くで撮りすぎたので大きさがわかりにくいですが、50x30センチ位・・・だったでしょうか(枕にちょうどいいサイズ・笑)

これまで何百回となくお客様にご案内してきた『ケルズの書』発祥のストーリーですが、やはり百聞は一見にしかず。
これまで机上の知識だったものが、一体どんな環境で書かれたのか、ありありと想像出来るようになりまりました。

私が常々、不思議に思っていた『ケルズの書』の色使いについても、謎が解けた気がします。
あれだけ多彩な色をどのようにして集めたのだろうか・・・と不思議に思っていましたが、島の小さな博物館を見学して納得。長さ5キロ半、幅1キロ半という小さな島・アイオナは、なんと鉱石の宝庫だったのです。島の多くがピンク色の片麻岩(ピンク片麻岩って初めて見ました!)、その他に緑や茶色、黒など色とりどりの鉱石が島中に点在しているのです。

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記念に拾ってきたアイオナの石。いずれもセント・コロンバズ・ベイで拾い集めたものです。左の石のピンクと緑の縞模様は『ケルズの書』の色調そのもの

海の色、空の色、草木の色が鮮やかなアイオナ。こういった自然の配色から、書の色使いの発想を得たのであろうことも訪れてみてよく分かりました。

旅の楽しさは、こうやって二次元の世界が三次元に変わること。
修道院見学はもちろん、アイオナの風を感じ、海で泳ぎ、はじめて本当の意味で『ケルズの書』を理解したような気がしています。

アイオナ訪問記、あともう一回だけ、時間をみて書かせていただくつもりです♪

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夕暮れどきのアイオナ修道院。教会内部では礼拝が行われていました

〈関連過去ブログ〉
聖コラムキルの浜辺にて(アイオナ島・その1)
スタッファ島、「フィンガルの洞窟」

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スタッファ島、「フィンガルの洞窟」

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「フィンガルの洞窟」をバックに。今回の旅に同行してくれた、K子さんと一緒に♪

アイオナ島へ行くにあたり、もう一箇所どうしても見ておきたかったのがこちら、北アイルランドの名所・ジャイアンツ・コーズウェイ(Giant's Causeway, Co. Antrim, Northern Ireland)のスコットランド版・・・とでも言うべき、スタッファ島(Isle of Staffa, Scotland)の「フィンガルの洞窟(Fingal's Cave)」。
周遊ツアーのご案内でこれまでに数え切れないほどご案内してきたジャイアンツ・コーズウェイですが、コーズウェイの説明をするには、対岸に位置するこのスタッファ島なしで語ることは出来ず、いつか行ってみたいと思い続けていた場所のひとつです。

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ボートでスタッファ島へ。ジャイアンツ・コーズウェイではこうやって海から見ることはないので、その迫力に感激!

六角形の柱が海からにょきにょき生えているかのように見える不思議な景観。伝説では、アイルランドの巨人フィンマックールにより作られたとされています。

対岸のスタッファ島に住む巨人ベナンドナーと、海を挟んで常に敵対していたフィンマックール。ついに果たし合いをすることになった2人の巨人は、海上に柱を埋め立てて土手道を築きながら、互いの地へと一歩一歩、歩み寄って行きました。
ところが、ベナンドナーの大きな足音を聞いたフィンはすっかり怖気づいてしまい、妻ウナの待つ家へと逃げ帰ってしまいます。賢いウナは「私にいい考えがあるわ」とフィンに赤ん坊の服を着せ、巨大な揺りかごに寝かせます。
海の中の土手道を通ってフィンを訪ねて来たベナンドナーは、赤ん坊のサイズを見てびっくり! これが赤ん坊なら、父親のフィンは何十倍も大きいはず…と、恐れをなしたベナンドナーは一目散にスタッファ島へ逃げ帰ってしまったそうな。

これが、ジャイアンツ・コーズウェイ(巨人の土手道)の名の由来です。海上の道はフィンが追ってくることがないようにベナンドナーが壊してしまったため、アイルランド&スタッファの両海岸沿いにのみ残った・・・というわけですね。

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アイオナ島またはモル島出発のボートツアーで見学。島の高台から見晴らすボート乗り場、小さな島へ次から次へとお客さんが到着

上記の伝説のお話とは別に、地質学的には、6000年前にこの地で起こった火山活動により形成された「柱状節理」の好例である・・というのが、その説明。
今から1万年前に最後の氷河期が終わり、氷河が溶けて海水面が上昇したことによりアイルランドとブリテン島が分離され、両海岸沿いに奇岩が残ることになったのでした。

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ジャイアンツ・コーズウェイの「パイプオルガン(こちらに写真アリ)」を彷彿させる景観。見事な垂直の石柱群です!

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こんな角度で見るとコーズウェイそっくり。実際には、ひとつひとつ柱のサイズがコーズウェイより大きめでした

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こんな斜めの柱も面白い・・・

スタッファ島の柱状節理のいちばんの見どころは、海面に出来た洞窟。これはジャイアンツ・コーズウェイにはないものです。(パイプオルガンの中がえぐれているけれど、海には面していません)
スコットランド神話の主人公の名をとって、「フィンガルの洞窟(Fingal's Cave)」と呼ばれますが、フィンガルとはアイルランドで言うところのフィンマックールのにスコットランド版のようです。
(フィンガルは巨人ではありませんが、両国の神話の登場人物、ストーリーは似通っています)

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侵食により形成された見事な海食洞

ちなみに、スタッファ在住であるはずのベナンドナーの名はどこにも出てこないのが気がかり。アイルランドで伝えられている神話によれば、ここは「ベナンドナーの洞窟」であってもいいと思うのですが(笑)。

この神秘的な洞窟に感銘を受けて、19世紀の作曲家メンデルスゾーンが『フィンガルの洞窟』という演奏会用序曲を書いたのは有名な話。
1830年に発表されたこの曲は、スコットランドを旅行中、嵐の夜にスタッファ島にたどりついたメンデルスゾーンがこの洞窟で霊感を受けて完成したのだそうです。実際の洞窟に入ってみると、確かに霊的なものが降りてきてもおかしくない感じ。

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神秘的な洞窟内部。スコットランドを代表する小説家ウォルター・スコットいわく、「いままで聞いたどんな描写をも超えていた」・・・

ジャイアンツ・コーズウェイへお客様をご案内するたびに、何十回となく口にしてきた「スタッファ島」。
これまで世界のいろいろな場所へ行きましたが、ここは本当に素晴らしく、一見に値する場所でした。コーズウェイは海へ向かって敷石が敷き詰められている・・・といった感じですが、こちらは海から直接、高い柱がにょきにょき突き出していて迫力満点。

これまでずっと、「善光寺は参拝したが、北向観音はまだ・・・」といった「片詣り」気分だったので(←思いつくのはやはり信州ネタ。ローカルな話でスミマセン)、ついに両者への参拝(!)が完了し、スッキリしました(笑)。

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通りすぎるヨットと奇岩。ちらりと見えている島がアイオナ。これ以上ないくらいの素晴らしいお天気でした♪

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聖コラムキルの浜辺にて(アイオナ島・その1)

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アイオナで夏休み♪ 聖コラムキルが上陸したと言われる浜辺、セント・コロンバズ・ベイ(St Columba's Bay)にて

ダブリンから計8時間のドライブと、3度のフェリー。あ~遠かったけれど、素晴らしかった!
往復にほぼ丸一日ずつかけて、スコットランドの小さな島、アイオナ(Isle of Iona)へ行ってきました。

一度は行ってみたい!と思い続けていたアイオナ島。ダブリンのトリニティーカレッジ所蔵の有名な『ケルズの書』はそもそもこの島で作成されたものです。
書が作成された800年頃はバイキングの活動が激しく、アイオナの修道院もバイキングに襲撃され、68名の修道士が殺された・・・と記録にあるそうです。生き残った修道士たちがまだ未完であった書を持って、小舟に乗ってアイルランドへ逃げてきて、ケルズ(Kells, Co. Meath)で完成したため『ケルズの書』と言います。

これまでお客様をご案内して、何百回となく見てきた『ケルズの書』。「スコットランド沖合のアイオナ島で作成され・・・」と毎回説明しているうちに、まだ見ぬこの地への思いがつのり、毎年夏になると「アイオナへ行きたい~」と思い続けていました。
道中長いため1日、2日で行くことができず、なかなか実現できなかったのですが、今回、仕事の合間の短い休暇に予定を埋め込むようにして、えいや!と思い立って行ってきました。

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対岸のマル島(Isle of Mull)からフェリーで約10分。海から見るアイオナの町並みやアイオナ・アビー

なんと、日中26度という、こちらでは珍しいような真夏のお天気に恵まれてアイオナに上陸。
まずは『ケルズの書』が書かれた修道院へ・・・と思っていたのですが、あまりの暑さにとにかく海へ入りたくなり、修道院見学は後回しにして、聖人コラムキルが上陸したと言われるセント・コロンバズ・ベイ(St Columba's Bay)へ泳ぎに行くことに。
(コラムキルはアイルランド語の名前で、その英語名がコロンバ)

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島の南西側にあるセント・コロンバズ・ベイは、港のある村から歩くこと約1時間。途中のクラフト・ショップで行き方を教えてもらい、羊の歓迎を受けながら(!)、ゴルフ場の中の道なき道をえんえん歩いて行きました

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登ったり下ったり、湖の脇を通って、シダの葉が茂る草地を超えて、ついに見えてきたセント・コロンバズ・ベイ!

521年、アイルランド北西部のドネゴールで生まれた聖コラムキルは、デリーやドラムクリフなどアイルランド各地に修道院を創始。さらに小舟に乗ってスコットランドへ渡り、アイオナを拠点としてキリスト教を布教しました。
アイオナの守護聖人であり、アイルランドでは聖パトリック(アイルランドにキリスト教を伝えた聖人)、聖ブリジット(アイルランド初の女子修道院を創始した聖人)と並ぶ3大守護聖人のひとりにその名を連ねています。

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アイオナ修道院内部にある聖コラムキルのステンドグラス

コラムキルがどのような経緯でアイルランドをあとにしたのかは、諸説あるようです。部族同士の戦いに巻き込まれて島流しにあったのか、自らの選択でスコットランドにキリスト教を広めるためにやってきたのか。
いずれにしても、アイルランドにいちばん近い(とは言っても直線距離で100キロ位ありそうですが・・・)南西のこの浜に到達したと言い伝えられているようです。

コラムキルの上陸地は砂浜だと勝手に思い込んでいたのですが、たどり着いたののは石ころだらけの浜でした(笑)。
結構な岩場でもあり、石と岩に気をつけながら、泳いだり、岩の上で寝そべったり。

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こんな岩だらけのところに舟をつけるのは大変なことだったでしょう

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離れ岩に泳いで到達。平らな岩の上に寝そべると、岩が熱々になっており、天然のストーンセラピーでした(笑)

あとで島のヘリテージセンターを見学して知ったのですが、アイオナは石が豊富で、この浜にはアイルランドのコネマラ・マーブルに似た緑色の石や、ピンクの片麻岩など、きれいな石がたくさんありました。
なんだかその石ころから、エネルギーがたっぷり出ているようで、土地の空気がとても軽い感じがしました。

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聖コラムキル上陸の地を見晴らす場所に誰かが作った、アイオナのホワイト・マーブルのケルト十字

この浜辺、空気も風も、海水さえも「サラサラ」した感じ。
あまりにも楽しく、幸福で、夕食の時間を忘れて長い時間浜辺にいてしまったのですが、お腹が全くすかない。もしかして、昔の修道士たちはこういう気持ちだったのではないでしょうか。
五感が自然の恵みで満たされると食欲はなくなってしまうのかも?・・・とちょっぴり聖者の気分を味わうことが出来た、聖コロンバ上陸の地でした。

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『嵐が丘』をハイキング(ブロンテ姉妹ゆかりの地-英国)

先日イングランドをご案内させていただいた時に、ブロンテ姉妹のゆかりの地ハワース(Haworth, Yorkshare, UK)に滞在して、小説『嵐が丘(Wuthering Heights)』の舞台となった荒野をハイキングしてきました。

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ハワース周辺にはハイキングのルートがいくつもありますが、嵐が丘へのハイクはなんと往復10キロ!

19世紀英文学史上にその名を大きく残すこととなったブロンテ姉妹ですが、彼女たちの父親は北アイルランドのカウンティー・ダウン(Co. Down)出身のアイルランド人。
(少々古い記事ですがこちらをご参照ください→ブロンテ父の故郷を訪ねる

一族はもともとカウンティー・ミース(Co. Meath)出身で、父方の祖父は地元ではよく知られた語り部だったそう。姉妹の文学的素養はそのあたりから来ているのかもしれず、アイルランドとのコネクションは見逃せません。

実際に作品が生み出されたのは、彼女たちが育った英国ヨークシャー地方の小さな町、ハワース。
これまでハワースに来ても『嵐が丘』の舞台とされる荒野の中の廃墟までは足を伸ばす機会がなくいましたが、今回は念願かなって『嵐が丘』の世界を堪能することが出来ました。

町の観光案内所で手に入れたWalking Mapを手に、荒野を目指して出発。
道中、こんなきれいな景色があったり、

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谷間の貯水池

生まれたばかりの子羊にもたくさん出会いました!

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とにかく…かわいい♪

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谷の奥へ行くにつれて道はところどころ険しくなり、ハイキングとしてはなかなかの面白さ。犬を連れて歩く女の子たち

町から近い2キロほどのウォーキング・コースは以前にも歩いたことがあり、その時は8月だったため、ヒースの花が全開!
今回は残念ながら花はなく、まだ春浅い様子でしたが、それはそれで荒涼感があり、また別の味わいがありました。

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2008年8月撮影。ピンクに染まる荒野にて

町から小一時間ほど歩き谷間を抜けると、ブロンテの滝(Bronte Waterfalls)、ブロンテの橋(Bronte Bridge)などと称される場所が。

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ブロンテの橋。滝はこのすぐ脇に見えるのですが、しばらくお天気続きだったため、この日は水がほとんどありませんでした

そして何よりも感激したのが、ブロンテの椅子(Bronte Chair)。
姉妹(特に『嵐が丘』の作者のエミリー・ブロンテ)が荒野を歩く途中でここに座り、小説の構想を練った…と伝えられてる石です。

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氷河の堆積物と思われる巨石がたくさん転がっている中、この石は本当に椅子型!看板を立てて「ブロンテの椅子です」とアピールするわけでもなく、知らなかったら全く見逃してしまいそうなくらい、そのまま自然にそこにあるのです。ここでエミリーやシャーロットがインスピレーションを得たかと思うと…感激でした♪

ここから丘の上までは、あともう一息。
上り坂で道は険しくなりますが、荒野の様子はますますそれらしくなっていくので、わくわくしてきました。

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荒野の風を楽しみながら歩くキヨミさん

ついに到達した憧れの嵐が丘には、トップウィゼンズ(Top Withens)と呼ばれるファームハウスの廃墟がたっています。
小説の中の屋敷とは直接の関係はないようですが、このロケーションは『嵐が丘』の世界そのものであり、登場人物のキャサリンやヒースクリフを思わずにはいられません。

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かつては立派なファームハウスだったことでしょう

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ブロンテ協会により設置された碑には、「『嵐が丘』にゆかりのファームハウス。エミリー・ブロンテが小説に描いたアーンショー屋敷とは類似していないものの、荒野の舞台はおそらくこの丘であろう」といった趣旨のことが書かれていました

風もあまりなく、暑くも寒くもない、絶好のハイキング日和。
丘の上の廃墟を前に、大満足で一休みしているキヨミさんと私です。

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本当に楽しいハイキングでした♪

この10キロの嵐が丘ハイクは、ループ状に歩けるので、同じ道は通らないんですね。
Walking Mapに書かれていたとおり、約3時間半で歩ききった私たち。
今度小説を読み直したら、この荒野の光景をありありと目に浮かべることが出来そうです。

その他に訪れたブロンテ姉妹ゆかりの地についても、折りをみてまたご紹介したいと思います。

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